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【上出長右衛門窯】時代に合わせてピボットを繰り返すことで、繋ぐ九谷焼

【上出長右衛門窯】時代に合わせてピボットを繰り返すことで、繋ぐ九谷焼
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小泉淳子
概要

明治12年(1879年)創業の上出長右衛門窯は、石川県能美市の伝統ある九谷焼を製造・販売する窯元です。現在後継者として窯のディレクションを手掛けているのは、6代目の上出惠悟氏。東京藝術大学を卒業後に家業に入った上出氏は、職人が1点、1点手描きで絵付けする窯の伝統を守りつつ、昔からの図柄を粋にアレンジするなど、柔軟な作品作りで九谷焼の世界を広げてきました。150年近い歴史がある上出長右衛門窯の柔軟さは、創業当時からあったようです。

       

      創業時から変わらない、上出長右衛門窯の起業家精神

       

      まずは、簡単に自己紹介をお願いいたします。

       

      僕は今、明治12年に創業した上出長右衛門窯の6代目として、運営企画、経営、デザインディレクションなどをやっています。職人と一緒にものを作るというスタイルで、大学を卒業してからもう17年くらいになります。僕自身が直接ものを作るということではなく、あくまで職人がものを作り、僕が考えるというスタイルです。個人作家としても活動しているので、上出惠悟という名義で磁器の作品を作る時は、僕が絵を描くこともあります。

       

      上出長右衛門窯とは別に、2013年に上出瓷藝(しげい)という会社を立ち上げて代表をしています。こちらの会社では、器だけではない様々な製品の企画デザインや九谷焼のリソースを活かした企業へのデザイン提供などを行なっています。

       

      上出長右衛門窯は明治12年創業という伝統ある窯ですが、どのような歴史をたどってきたのでしょうか。

       

      もともとは旅籠(はたご)業、小さな宿を営んでいました。すぐ近くに手取川という大きな川が流れているのですが、明治時代初期までは橋が架かっていませんでした。北国街道を旅する人たちが一旦足止めになることもあり、この辺りは小さな宿場街だったんです。そのいくつかの旅籠のうちの一軒をうちの先祖が経営していました。しかし、橋が出来てしまうと宿泊者が減ってしまった。それとちょうど同じ時期の明治10年頃、この能美市周辺で九谷焼の生産や輸出業が盛んになります。横浜港から九谷焼を海外に送っていたので、能美市出身の商人たちが横浜にお店を出したりしていた程だったそうです。旅籠は暇になったけれど、一方で九谷焼が産業として盛り上がりを見せた時代になった。

       

      それに伴い、初代の上出長右衛門は、九谷焼の販売に目をつけ、少しずつ商売を移行していきました。当初は、富山の薬売りを介して九谷焼を販売していたそうなんです。富山の薬売りって、全国にネットワークがありますし、使った分だけを箱に補充してその分だけ請求するという、今でいうサブスクみたいな先進的なスタイルだったと思うんですよね。

       

      旅籠業から富山の薬売りを介して焼き物の販売にピボットされたというのは面白いですね。

       

      宿泊者の中には怪我人や病人もいたと思うので、もともと富山の薬売りとは深い繋がりがあったんだと思います。彼らは各地の上顧客に対して九谷焼や輪島塗などを土産品として進呈していたみたいなんですよ。僕が子どもの時も、家に来る薬売りのおじさんは、必ず風船などのおまけをくれましたから、そういったコミニュケーションを伝統的に大事にしていたのだと思います。初代が薬売りに九谷焼を卸したところから、本格的な九谷焼販売に携わるようになっていったんですね。

       

      2代目になると旅籠業はやめ、九谷焼の販売専業になったそうです。当時としては珍しく、器の裏に「上出製」と名前を入れていました。たいていは「九谷製」とか「加賀国九谷製」とかしか書いていないところ、うちはずっと上出製と入れていた。今で言えばブランディングだったのかなと思うんです。もっとも2代目の頃は自分たちでは作らずに外注していたのですが、自分たちの仕事に自信がないと名前なんて入れないと思うんですよ。自社で製造を始めたのは3代目、僕の曽祖父になってからです。戦前の1941年に本窯を導入して、初代の名前にちなんで上出長右衛門窯という名前が生まれました。

       

      卸業から製造業にさらにピボットされたのはなぜだったのでしょうか。

       

      多分、今のように作り手がそれほど尊ばれていない時代で、産地のヒエラルキーは商人、つまり問屋が一番上でした。窯元から問屋に転じてヒエラルキーが上がることはあっても、下がるというのはかなりレアケースで。よほど自分たちで工場を持ってまで作りたい何かがあったり、作る楽しさだったり、そういったものを感じていたんじゃないかなと想像しています。

       

      明治・大正の時代は、主に高知県の皿鉢(さわち)料理用の大皿などを作っていました。船で高知まで運んでいたらしく、祖父が子どもの頃に、先代から「鳴門海峡を通る時に船が揺れるのが嫌だった」という話を聞かされていたそうです。九谷焼は大皿や飾り皿の他にも、壺、花瓶など飾るための大きな器を作って財を成したそうですが、長右衛門窯は食の文化を支えるため、ずっと割烹食器を作ってきたそうで、そのことを誇りにしていると祖父が僕に話してくれたことがあります。

       

      しかし、近年はチェーン店や居酒屋に客が移り、コロナ禍には宴会も減って、割烹食器が活躍する料亭や、お座敷の文化みたいなものが廃れつつあります。料理店向けだけでは経営が成り立たなくなり、今後どうしようかと考えあぐねている時期に、ちょうど僕が大学を卒業して帰ってきたんです。それが17年前のことです。

       

       

      九谷焼には、まだ可能性がある

      九谷焼には、まだ可能性がある

       

      大学を卒業して家業を継がれた時、ご両親は反対されたとか。それを押し切って戻ってきた背景にはどのような思いがあったのでしょうか。

       

      単純に、なくなってしまうのがもったいないと感じました。みんながケーキ屋さんになりたいとか、仮面ライダーになりたいと言っていた小さな頃から、将来は茶碗屋さんになりたいと答えていました。でも、いざなろうと思ったときに、実家の窯がなくなっている可能性を感じたんですよね。後悔を残したくないという思いと同時に、日本全国の手仕事がどんどん失われているという現実もあった。とはいえまだ可能性はある気がして、なんとかしたいという気持ちでした。

       

      僕が大学を卒業したのが2006年。2000年代に入ってから少しずつ、生活とか暮らしそのものが見直されてきて、北欧デザインや民藝のブームもそうですし、陶芸家もすごく脚光を浴びていました。雑誌の「クウネル」のように丁寧な暮らしに憧れる人も多かった。ですが、九谷焼は華美で日常の生活に取り入れづらいイメージがあったし、歴史的にもお殿様が作った官窯なので、民藝と真逆なんですよね。だから民藝ブームにも乗れなくて。当時僕は東京にいて、もどかしさみたいなものを感じていました。

       

      九谷焼には可能性があるとおっしゃっていましたが、どのようにその可能性を開くことができると思われたのでしょうか。

       

      大学では油絵を学んでいましたが、作品は全然作っていなくて、メセナ活動をしている企業に関心があったので、資生堂の施設でアルバイトをしたり、活躍しているアーティストのお手伝いをしていました。卒業後もそうした企業に就職するなり、大学院に通うなり、新しい経験をしてから実家に戻ることを考えていたのですが、家業の現状を見ていると、思いのほか時間がない気がして、結果的には卒業してすぐに帰ることになりました。

       

      文化を守ったり発信したりといった活動は、実家に戻ってもできるのではないかと思ったんです。当時は九谷焼業界からの一般層に向けた効果的な発信はできていないように見え、高級な婦人誌以外の雑誌に九谷焼はほとんど登場しない。自分たちの生活から遠いと思われても仕方ないですよね。デザイン誌やファッション誌といった雑誌にも九谷焼がもう少し登場してもいいし、そういったポテンシャルはあると思っていたので、そういう意味で可能性があると感じました。

       

      ご実家に戻られてまず始められたのはどういったことだったでしょうか。

       

      料理屋さんや問屋さんに向けた商売から、より一般の人たちに向けたBtoCのアプローチを始めていきました。工場を開放したり、限定品を発売したりする「窯まつり」も開催するようになり、23年には直営店を金沢にオープンしています。

      BtoCの接点をつくるため、一般客向けに窯を開放する「窯まつり」を開催。絵付け体験やトークショーなどが楽しめ、毎年大勢の人が訪れる。(提供:上出長右衛門窯)

      BtoCの接点をつくるため、一般客向けに窯を開放する「窯まつり」を開催。絵付け体験やトークショーなどが楽しめ、毎年大勢の人が訪れる。(提供:上出長右衛門窯)

       

      伝統の中にある新しさは、現代の生きるカルチャーと繋ぐことで発見される

       

      発信という意味では、どのような取り組みをされたのでしょうか。

       

      僕が実家に戻ったころは、ちょうど金沢21世紀美術館ができたばかりで、自分が知っている人やアーティストたちが金沢に頻繁に来るようになって。そういった人たちと会う機会も多かったので、自分の家の家業について紹介できるリーフレットのようなものを作るところからスタートしました。もちろんホームページも作りましたが、今思えばまだアナログの時代でした。

       

      またコラボレーションにも力を注ぐようになりました。コラボレーションは、それまでうちの窯のことを知らなかった人に見てもらえるチャンスになるので、幾度とアプローチしたんです。ただ当時、自分が甘かったのは、それで窯を発見してもらえればそのまま器が売れると思っていたことです。結果的にはそうではなかった。注目されるのはコラボレーションした作品だけで、自分たちがずっと作っているプロパー製品が脚光を浴びることはほとんどなかったんです。面白いアプローチをしている人が出てきたな、みたいな感じでは受け取ってもらえたと思いますが、製品そのものにも手を入れなければ、売れないということを強く感じましたね。

       

      今、ギャラリーに並んでいる製品の半分は僕が携わってるもので、もう半分は以前から作っているものになります。僕が帰ってきた当時はこの3、4倍の数の製品があって、僕が何かディレクションして新しいものを作るのではなく、見せ方さえ変えれば発見してもらえて、それが売れるんじゃないか。そう思っていましたね。売れないのは知られていないからだと。

       

      どれだけ「発見待ち」だったんだろうって今は思うのですが…。それくらいの魅力があるものだと思っていたんです。ただ見せ方を変えても、古くから受け継がれているデザインの中に、僕が感じた新しさであるとか、面白さみたいなものは、なかなか伝えられなかったんですよね。

       

      ただ見せ方を変える、というのはどういうことをされていたのでしょうか。

       

      例えば菊が描いてある伝統的なお皿の横にミツバチを描く。あるいは山水の風景が描かれたお皿に虹を描いたり、申年の干支盃の横にバナナを置いたりすれば、伝統的なデザインがちょっと違うものに見えるんじゃないか。そういうアート的とも言えるアプローチをしていました。でも、それではあまり変わらないんですよ。欲しいと言われるのはミツバチを描いたお皿ばかりで、元々の製品は売れなかった。古いと思われているデザインを新鮮に感じてもらうには、もっとダイレクトなアプローチが必要だったんです。

       

      そう気付いてから挑戦したアプローチのひとつが、スペイン出身のデザイナーとして活躍する、ハイメ・アジョン氏を起用したシリーズ、そしてもうひとつが笛吹湯呑のシリーズです。この湯呑には文人が座って笛を吹いている定番の図柄があるのですが、その笛を新しい楽器に変えました。どちらも製品そのものをディレクションした大胆なアプローチになりますが、これくらいのインパクトが必要だったんです。

      スペインのデザイナー、ハイメ・アジョンとコラボレーションした醤油差し。外部にデザインを依頼した初の製品となった。(提供:長上右衛門窯)

      スペインのデザイナー、ハイメ・アジョンとコラボレーションした醤油差し。外部にデザインを依頼した初の製品となった。(提供:長上右衛門窯)

       

      伝統的な笛吹の図柄と現代のカルチャーを掛け合わせた人気の笛吹シリーズ。スケートボードやラジカセ、エレキギターなどが違和感なく溶け込んでいる。(提供:上出長右衛門窯)

      伝統的な笛吹の図柄と現代のカルチャーを掛け合わせた人気の笛吹シリーズ。スケートボードやラジカセ、エレキギターなどが違和感なく溶け込んでいる。(提供:上出長右衛門窯)

       

      笛吹には楽器だけでなく、スケートボードやラジカセなどの絵柄もありますが、なぜストリートカルチャーを取り入れられたのでしょうか。

       

      たまたま、地元で有名なスケーターに、結婚するから引き出物を選びたいと相談されたところから始まったんです。実は、それ以前の楽器の絵柄も、サックスとトロンボーン奏者のご夫婦の方に依頼いただいた引き出物から始まっています。それがきっかけになり、そこからギターやトランペットなどの楽器、ラジカセやグラフィティといったストリートカルチャーへと繋がっていきました。結果的にはすごく人気を呼び、わかりやすさは大事なんだと感じましたね。

       

      笛吹の図柄は長い間守られてきたものかと思うのですが、伝統に手を入れることについて葛藤はありましたか。

       

      そうですね。僕は古いと思われているものの中にも、今でも通じる新しいアイデアがあると感じています。デザイン性の高さであったり、モチーフの自由さなど、堅苦しいと思われがちな伝統の中に、今と変わらない人間らしさや、高い技術や工夫を感じたりする。九谷焼が始まった当時は、磁器という白い肌の焼き物は大変新しいものだったんです。作り手たちも、この新素材をどう扱うか、面白さを感じてさまざまなチャレンジをしていたはずなんです。それが、だんだん普及するにつれ、新しさが薄れ普通になってしまう。

       

      でも僕は、今も古い九谷焼や長右衛門窯の古いデザインにこそ魅力を感じています。

       

      だから笛の代わりに、スケボーやギターやラジカセを持たせたりすることには、葛藤がありました。意外と僕はそういう面では保守的なところがあって、オリジナルの笛吹が一番シンプルで素晴らしいと思っているんです。もし手を入れなくても「欲しい」と感じてもらえるのであれば、それが最高だと思っています。新しいデザインの笛吹が生まれるのを楽しんではいますが、汚しているような気持ちもなくはないんです。

       

      それでも、時代に合わせていく必要がある、と。

       

      やはりそう思います。伝統工芸も、今を生きている人たちが作っているもの。ふんどしを締めて着物を着ている人が作っているわけではなく、お客様と同じように、自動車に乗ってスウェットを着て、YouTubeを見ている人が作っているわけです。そういう同時代性というか、品物を通じて“今を生きている”と感じてもらう必要があると思うんです。

       

      そういう点で、今を生きる文化と積極的に繋がるということはすごく大事だと思います。例えば、歌舞伎は伝統芸能でありながら、アニメとコラボしたり、いいバランスで現代的な要素を取り入れている。

       

      伝統工芸は守られる存在なので、他の産業と比べると補助金などの面で恵まれています。でも、ストリートカルチャーって、スケボー禁止の場所で滑走したり、音を出しちゃいけない場所で路上ライブをしたりすることが一部問題になっています。イリーガルで良くないことかもしれないけど、それってすごく強いことじゃないですか。ダメなのにやるくらいのパワフルさ。それがきっと生きている文化なんですよね。

       

      片や伝統工芸は、受け継ぐ人が減っていて、守りたいのに消えてしまった工芸もたくさんあります。ストリートカルチャーは極端な例ですが、僕たちが現代の文化と繋がることは重要なことですよね。九谷焼も、百万石の加賀の武家文化と、東洋の陶磁文化が出会ったことで誕生し、茶の湯や京焼、海外で華やいだ「ジャポニズム」など、多様な文化との繋がりの中で変化し、独特な個性を生みました。上出長右衛門窯も、時代ごとの様々な出会いによって進化し、今があるのだと。

       

      ■プロフィール

      上出惠悟 (かみでけいご)

      1981年、石川県生まれ。上出長右衛門窯6代目。東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻を卒業後、石川に戻り家業である上出長右衛門窯の後継者として、ディレクションに携わる。伝統柄の「笛吹」にギターやトランペットを持たせるなどユニークな味付けを施した作品や、スペインのデザイナー、ハイメ・アジョンとコラボレーションしたシリーズなど柔軟な作品作りが話題を呼んでいる。2013年に合同会社上出瓷藝を設立。上出瓷藝では、上出長右衛門窯の流通を担うほか、企業のパッケージデザインなどを手掛ける。個人のアーティストとしても活動中。

       

      上出長右衛門窯(外部サイトに移動します)

       

      取材・文:小泉淳子 撮影:蛭子 真 編集:Pen編集部

       

      関連記事:【上出長右衛門窯】九谷焼の面白さを伝えるための上出惠悟氏にしかできないアプローチ

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      Published: 2025年4月9日

      Updated: 2025年4月22日

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