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【上出長右衛門窯】九谷焼の面白さを伝えるための上出惠悟氏にしかできないアプローチ

【上出長右衛門窯】九谷焼の面白さを伝えるための上出惠悟氏にしかできないアプローチ
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小泉淳子
概要

石川県の伝統工芸である九谷焼を製造・販売する上出長右衛門窯の6代目である上出惠悟氏は、2006年に東京藝術大学美術学部を卒業後、家業に入りました。現在は窯のディレクションを手掛けているほか、2013年に設立した上出瓷藝(しげい)の代表も務めています。上出瓷藝では上出長右衛門窯の流通改革を実行し、企業の商品デザインや転写技術を採用したKUTANI SEALの企画・販売などを手がけています。自身の名前でのアーティスト活動にも取り組む上出氏に、工芸と経営、伝統とデザインのバランスについて聞きました。

       

      九谷焼の魅力は歴史の面白さにあり

       

      改めて九谷焼の魅力を教えてください。

       

      一番の魅力は、九谷焼の歴史が面白いことでしょう。加賀市の山奥に九谷村と呼ばれる集落があって、今から370年前、そこで焼かれた焼き物が最初の九谷焼です。それから50年間、雪深い山奥で焼かれていた。九百九十九谷を略して九谷という地名になったと言うくらい不便な場所です。それがある日突然、歴史から消えてしまう。そこから100年間、石川県で磁器は焼かれていません。

       

      九谷村で磁器が焼かれたのは、(加賀藩の支藩だった)大聖寺藩の初代藩主前田利治の命令だったと言われています。たったの50年間だけ作られていたものを「古九谷」と呼んでいます。その後、幕末になって加賀藩が、京都から絵師で陶工でもある青木木米(もくべい)を呼び、金沢に窯を作らせました。これが結果的に現代に続く「再興九谷」の始まりとなりました。ですので「古九谷」と「再興九谷」は明確に分けられています。

       

      木米は売れっ子だったためすぐ京都に帰ってしまうのですが、弟子の本多貞吉が石川に残り、花坂陶石という陶石を発見しました。そこからいくつかの窯元が生まれ、それが今の九谷焼産業の礎になります。

       

      古九谷は非常に謎に包まれていて、一体どこからやってきて、なぜなくなってしまったのか。デザインもアバンギャルドというか、すごく大胆で他に類を見ないような様式を持っています。限られた年月しか焼かれていなかったこともあって、今でも非常に骨董的な価値が高い色絵磁器なんです。でも、どういう人が焼いて作っていたのか、なぜそれを作ったのか。はっきりとわかっていないんですよね。

       

      古九谷焼の産地についても、本当は有田で焼いていたのではないかという議論はあるのですが、あの場所で何かが焼かれていたということはわかっています。また、加賀藩が関与していたこともわかっていて、東京大学の赤門がある辺りには、かつて加賀藩藩主の前田家の屋敷があり、古九谷の陶片がたくさん出土しているんですよね。

       

      やはり謎があるって面白いじゃないですか。すごくロマンをかき立てられる。それが九谷焼の魅力のひとつになっているな、と僕は思っています。現在、国内の主要な博物館や美術館は、古九谷焼を伊万里の一様式に分類していて、「伊万里焼古九谷様式」と呼ばれています。でも、今でも九谷焼に携わっている人たちは、それぞれの古九谷への考えをお持ちです。古九谷がないものにされているのは残念なことですが、作り手が自身の古九谷像を自分の制作に活かしている。それが面白いし、いいなと思うんです。それが九谷焼の人たちのアイデンティティーとなっています。少なくとも有田にはそのような作り手はあまりいないと思いますし、表現としても残っていないように思います。

       

      上出長右衛門窯の歴史もとても興味深いですよね。

       

      初代や2代目が何を思って卸業から窯元に移行したのか、については資料が残っていないので、6代目としては古九谷と同じように思いを馳せるしかありません。何もわかっていないところには自分なりの答えを見つけられる。だから、手取川に橋が架かったのは上出長右衛門窯の創業した明治12年の前後だろうという仮説を立てて調べると、それが当たっていたりします。知るという作業は楽しいですね。

       

      関連記事:【上出長右衛門窯】時代に合わせてピボットを繰り返すことで、繋ぐ九谷焼

       

      何が重要かを見極める

       

      6代目として上出長右衛門窯のディレクションを行う一方、上出瓷藝という会社を立ち上げ、KUTANI SEAL(陶磁器に転写して絵付けした九谷焼)を発表するなど、窯とは異なるアプローチをされています。

       

      KUTANI SEALについては、何から話せばいいでしょうか。

       

      九谷焼には手描きで絵付けをする他に、転写という技法(図柄を印刷したシートを貼って焼き付ける方法)があります。昭和40年頃に始まったもので、大量に商品を納品しなければいけない時に、手描きでは間に合わないので九谷でも転写という技術が開発されました。しかし、一般的にはご存知ない方も多い。食品のように製造の情報がオープンになっていないことに問題意識がありました。

       

      転写の技法も高度化し、一般の人が見ても手描きとなかなか区別ができないため、単純に価格で判断されてしまいます。転写で作られたものは安いですが、上出長右衛門窯はロクロや手描きの伝統を守っているので、どうしても値段がある程度高くなってしまいます。むしろ、転写が特別安いということになるのですが、転写という技法がお客様に伝わっていない。全てのお店がそうではありませんが、半ば隠されて売られているともいえるような状態があったんですよね。一般のお客様は、伝統工芸というと、職人が手で絵を描いていると疑わないんです。たとえ皿1枚が数百円で売られていたとしても、です。転写という技法が良くないと言っているのではなく、正しく伝えなければ今後、手描きを残していくことが難しくなってしまう未来もあるかもしれない。

       

      とはいえ、同じ産地の同業者さんなので、あれは転写ですよ、とこちらがお客様に勝手に伝えるわけにもいきません。だからこそ、上出長右衛門窯の製品はすべて手描きであることを発信するしかなく、言葉や写真、動画などいろいろな方法で発信していたのですが、ある時、もし自分たちで転写のブランドを作ったらオープンにできるということに気がついたんです。転写であることをオープンにしたブランドって果たして価値があるのかわかりませんでしたが、まずはやってみようと思いました。

       

      上出長右衛門窯でも僕が帰ってきた頃は、製品が売れないので転写をやるという話が出ていましたが、僕たちは手描きを続けているからこそ存在する意味があると思い、ひたすら反対していたんですね。お客様への裏切りにもなると。だから絶対転写はダメだと考えていました。ですが、転写と手描きを明確に分けることができれば、それは悪いことではないし、逆に長右衛門窯の価値を上げられるかもしれないと考えました。

       

      そこで、子どもの頃にシールをノートや壁に貼るのが楽しかった感覚を思い出し、わかりやすく「KUTANI SEAL」と名付けてブランドを始めました。当初は、その転写シールをお客さんに貼ってもらうワークショップを主にやっていました。技術は不要で、どこに何を貼るかというセンスだけが問われるものなので誰でも作れます。そのうちに転写を用いた商品も作って全国の小売店に卸すことも始めました。「九谷焼のシールで楽しく遊びましょう」と言って、高級感がある九谷焼をもっと身近に感じてもらうブランドを目指しました。

      九谷焼の転写技術のアンチテーゼから生まれたKUTANI SEAL。現在は上出長右衛門窯からは完全に独立したブランドとして続いている。(提供:上出瓷藝)

      九谷焼の転写技術のアンチテーゼから生まれたKUTANI SEAL。現在は上出長右衛門窯からは完全に独立したブランドとして続いている。(提供:上出瓷藝)

       

      転写技術に対するアンチテーゼでしょうか。

       

      そうですね。こっそりとアイロニーを含めたアプローチですね。KUTANI SEALのワークショップは人気を呼び、10年間で2万人もの人が体験してくれたんです。窯の経営の助けにもなり、雇用も生まれました。

       

      しかし、KUTANI SEALが話題になって、僕がそこへ注力することで、このままでは“転写の人”になってしまうかもしれないという危機感がありました。本業はあくまで手描きの上出長右衛門窯で、僕は窯元を支える6代目であらねばならない。窯や僕自身に転写のイメージをつけたくないと感じるようになりました。

       

      140年の歴史ある九谷焼の窯元が、新しい挑戦としてKUTANI SEALを手掛けているほうが売りやすいという声もあったのですが、上出長右衛門窯とKUTANI SEALは完全に独立したブランドとして扱うことにしました。KUTANI SEALを上出長右衛門窯のセカンドラインにしてはいけないと考えたのです。窯の名前は一切出さないこととし、ショールームからも取り除きました。

      上出長右衛門窯では職人がひとつひとつ丁寧に絵付けすることにこだわってきた。2025年の干支である蛇で寿の文字を描いた盃。

      上出長右衛門窯では職人がひとつひとつ丁寧に絵付けすることにこだわってきた。2025年の干支である蛇で寿の文字を描いた盃。

       

      KUTANI SEALからすれば上出長右衛門窯の名前があるとないとでは大きな違いがありますが、上出長右衛門窯からすればKUTANI SEALの存在は重要ではありません。そのうちKUTANI SEALの高いラインが長右衛門窯だと思われるのではないか、という恐怖もありました。かつては、他の産地との競争で転写技術が生まれたのだと思うのですが、当時から職人の仕事がなくなるという議論があったようです。職人が1個1個器に手で描くということと、あらかじめ印刷されたものを貼り付けることは、やはり根本的に違うと思っています。

       

      一度始めたものも、思い切って見直すことは重要ということですね。

       

      そうですね。何が重要かを見極める。KUTANI SEALは上出長右衛門窯という後ろ盾がなくなって、足元が定まらず最初は少しふわふわしていましたが、今では独立して歩みを進めています。KUTANI SEALそのものは使命を持つユニークなブランドだと思っています。現在はKUTANI SEALは上出瓷藝のブランドとして扱っていて、金沢には長右衛門窯よりも先んじて直営店を作り、今年で10周年。今でもお店で毎日ワークショップを行っています。

       

      バランスを取る

      ブランドを自分でコントロールする体制にシフトしたことで、客との新しいコミュニケーションも生まれていると上出氏は言う。

      ブランドを自分でコントロールする体制にシフトしたことで、客との新しいコミュニケーションも生まれていると上出氏は言う。

       

      試行錯誤を重ねてこられていますが、ターニングポイントになった出来事があれば教えてください。

       

      現在進行形ではあるのですが、上出瓷藝を設立したことでしょうか。産地というのは、やはりすごく古くからのしがらみがあるため、なかなか自由が利きません。上出瓷藝を設立して一番大きかったのは、自分でコントロールできるようになったということです。新しい法人を作ることで、今までとは違うというスタイルでやれるようになりました。

       

      具体的に言うと、以前は製品を地元の問屋に卸すことを上出長右衛門窯は生業にしていたのですが、掛け率が低く、利益が僅かにしか残りませんでした。たくさん注文がある時代はそれでも良かったのかもしれませんが、時代が変わっても産地のシステムは長い間変わっていなかったんです。若い僕らからすると、何をやっているんだろうという思いになります。卸した製品がどこで売られるのかもわからないし、いくらで売られているのかもわからない。ブランドをコントロールできないというもどかしさもありました。

       

      上出長右衛門窯のままですと、伝統が却って邪魔になって状況を大きく変えることが難しかったのですが、僕が新たに会社を設立することで、「今後は上出長右衛門窯の製品は上出瓷藝の扱いとなり、お取引の条件も変わります」と言えるようになったんです。変革が可能になったという意味で、上出瓷藝を作ったのはかなり大きかったと思います。

       

      ビジネスモデルを変えられたということですね。

       

      産地の問屋に依存しないようシフトしたということになります。問屋さんと商売をすれば営業しなくても注文が入るわけで、利益は少ないけれどお金は入ってきます。でも、そのままでは伝えたいことを伝えられず、新しいことも生まれないと思ったんです。

       

      シフトしたことで、直営店やオンラインショップを通じて直にコミュニケーションができるようになりました。取り組んだ成果が明確に出るという意味でもやりやすくなってきたということですね。

      上出瓷藝では企業からの依頼に上出氏がデザインを担う。左は金沢の酒蔵・福光屋の日本酒のラベル。右は星野リゾートが金沢にオープンした「OMO5金沢片町」に置かれている九谷焼のそばちょこで、企画・製造を受託した。(提供:上出瓷藝)

      上出瓷藝では企業からの依頼に上出氏がデザインを担う。左は金沢の酒蔵・福光屋の日本酒のラベル。右は星野リゾートが金沢にオープンした「OMO5金沢片町」に置かれている九谷焼のそばちょこで、企画・製造を受託した。(提供:上出瓷藝)

       

      個人としてアーティスト活動も行っていらっしゃいますが、そうすることでうまくバランスがとれているといったようなこともあるのでしょうか。

       

      僕が個人でも活動しているのは、実は大きなことかもしれないです。僕は、上出長右衛門窯を引っ張っていく立場の人間ですが、上出長右衛門窯には多くの職人やスタッフがいて、今日お話しした歴史やアイデンティティーがあります。当然ですが、上出惠悟という個人とは全く別の人格です。本当にやりたいことは自身の作家活動で実現させることができているので、仰る通り良いバランスが取れている気がします。

       

      上出長右衛門窯はもう少し公の存在として捉えていて、窯元としての役割を考えるようにしています。たとえば、個人の名前で出すとしたら妥協できないものも、もし窯にとっては可能性がある場合は、一度やってみよう、なるべく遊んでみようという懐の深さを持つように意識しています。公園に例えてみると、近所の子供達が野球をやりたいと言えば、じゃあこの場所使いますか?と差し出してみる。それを眺めたり、一緒にプレイすることで新たな自分たちの側面を見つけたり、価値を見つけることができると思うんです。そこには出会いもあるだろうし、何より地域の役にも立てる。皆が公園を愛してくれたら嬉しいし、社会にとって大事じゃないですか。上出長右衛門窯はそういう存在になりたい。

       

      僕たちがチームで動いていることも大きいかもしれません。色々な人間がいますから、やりたいことも意見もそれぞれに違います。それによって難しいこともありますが、俯瞰的に、多面的に捉えることで見えてくる課題を、なるべくクリエイティブな力を発揮してそれをクリアしていくよう常に考えています。

       

      最後に、今後のビジネスの展望をお聞かせください。

       

      僕は、その都度自分たちが新鮮だなって思うことをやっていきたいと考えているので、大きな展望といえるものはありません。家業を継いでいる人は自分で仕事を選べないので、先祖の仕事を受け継ぐ時に、いかに自分という個とその仕事を繋げられるか、がカギを握ると思っています。それが自然にできている人たちは、それだけで個性的で唯一無二です。自分が近づくこともできますが、自分が培ってきたものに仕事を引き寄せるということも、重要かなと思います。

       

      僕は文化と文化が繋がったり、衝突したりする時に、新しいものが生まれると思うんですよね。上出瓷藝では、会社のロゴマークやパッケージなどを工芸的なアプローチで、デザインに落とし込む、といったことをしているのですが、やはり九谷焼という僕を支えてきたブランドや商品と繋がることで新しく生まれるものが確実にあるんです。そういったところに伝統的な文化の可能性を感じています。保存した伝統をいかに活用するかという時代になっているように思います。

       

      ■プロフィール

      上出惠悟 (かみでけいご)

      1981年、石川県生まれ。上出長右衛門窯6代目。東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻を卒業後、故郷に戻り家業である上出長右衛門窯の後継者として、ディレクションに携わる。伝統柄の「笛吹」にギターやトランペットを持たせるなどユニークな味付けを施した作品や、スペインのデザイナー、ハイメ・アジョンとコラボレーションしたシリーズなど柔軟な作品作りが話題を呼んでいる。2013年に合同会社上出瓷藝を設立。上出瓷藝では、上出長右衛門窯の流通を担うほか、企業のパッケージデザインなどを手掛ける。個人のアーティストとしても活動中。

       

      上出長右衛門窯(外部サイトに移動します)

       

      取材・文:小泉淳子 撮影:蛭子 真 編集:Pen編集部

       

      関連記事:【上出長右衛門窯】時代に合わせてピボットを繰り返すことで、繋ぐ九谷焼

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      Published: 2025年4月9日

      Updated: 2025年4月22日

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