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古典落語に学ぶ「経営者の心得」 与太郎&旦那に学ぶコミュニケーション術

古典落語に学ぶ「経営者の心得」 与太郎&旦那に学ぶコミュニケーション術
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二村高史
概要

2019年11月にアメリカン・エキスプレスのホームページ上で公開した記事の再掲です。

 

落語の登場人物を会社組織に当てはめると、「旦那」は会社オーナー、「番頭」は現場の統括、「小僧」は一般社員、「長屋の店子」は顧客となるでしょうか。これらのキャラクターが繰り広げる物語には、「人付き合いの心得」や「相手の心に響く伝え方」といった、日本人ならではのコミュニケーションの秘訣が潜んでいます。その中でも特に経営者の参考になりそうなものを、古典落語の名手といわれる林家正蔵師匠に伺いました。

      与太郎も「個性」と認める組織 

       

      古典落語のストーリーには、できた人物というのはほとんど登場しませんね。おっちょこちょいで失敗ばかりしている八っつぁんや熊さん、知ったかぶりなご隠居さん、遊びが過ぎて親に勘当された若旦那などなど。意気地がなかったり、トラブルに巻き込まれたり、恥をかいたりと、本当に困った人たちのオンパレードです。

      中でも、ダメ人間のチャンピオンのような存在が与太郎。ぼーっとしていて、ヘマばかりしている間抜けなやつです。例えば『牛ほめ』という噺では、父親から「おじさんが新しい家を建てたから、褒めてこい」といわれて懇切丁寧に褒め方を教えてもらうんだけれど、とんちんかんな間違いをしてしまう。こんな与太郎が今の世の中にいたら、周りからいじめられるか無視されるのが関の山でしょう。

      ところが、落語の世界ではそうじゃないんです。周囲は、与太郎をけっして仲間外れにしないんですよね。長屋の男どもが廓(くるわ)に遊びに行こうとなったとき、「与太郎は間抜けで粗相するといけないから置いていこう」とは言わないの。「与太郎も一緒に吉原に行こう」っていうのが『錦の袈裟』という噺です。『寄合(よりあい)酒(ざけ)』では、「与太郎はしょうがねえな」とか言いながらも宴会に誘う。同じ長屋に住んでいるんだから、仲良く暮らしていきましょうよということなんでしょうね。

      これは、今の時代に大きな教訓になるような気がするんです。現代の組織では、与太郎のような人間、つまり「こいつは役に立たない」と判断されたような人間は、排除されてしまいがちでしょう。でも、落語では排除しないんだなあ。たぶん、それを個性ととっているんでしょうね。「しょうがないやつだけど、あいつがいないと寂しいね、つまらないね」となる。そうした考え方は大切だと思います。

      嫌いな人や性格が合わない人に対してもそう。『長短』という噺は、極端に気の長い人と気の短い人が出てくるんですが、結局二人は仲良しだという内容です。気が合わなくてもいいんです。そりゃあ、たくさんの人がいたら、気が合わない人がいるのが当たり前でしょう。でも、一緒に仕事をしよう、何かを作り上げようというのは別の話。違う性格を認め合ったり、競い合ったりするから組織は強くなるんだと思います。

      最近では、よく多様性とかダイバーシティと言いますよね。性別、国籍、人種を超えて、企業が多様な人材を積極的に活用しようということだそうですが、多様性を高めれば生い立ちや考え方が違う人が増えるのは当然のこと。そんな組織をまとめていくには、与太郎のような「個性」を大切にする古典落語の心が必要だと思います。

       

      落語家 林家正蔵氏

       

      「社長と社員」は「栴檀(せんだん)と南縁草(なんえんそう)」の関係?

       

      古典落語には、企業のトップにぜひ聞いていただきたい噺も数多くあります。中でも、お勧めしたいのが『百年目』という噺です。江戸時代の商家が舞台で、そこの番頭というのが真面目一徹の堅物で通った男。店の隅々まで目を光らせて、小言ばかり言っているもんだから、店の中はピリピリ。旦那さんもいるけれど、実務はこの番頭が仕切っているという具合。今の会社に例えれば、番頭さんが社長で、旦那さんは会長といったところでしょうか。

      そんなある日、「じゃあ、お得意さんのところに行ってくる」と言って、堅物の番頭が店を出る。そして、少し離れた駄菓子屋さんに入ると、2階にとんとんっと上がっていく。そこで洒落た着物に着替えて花見に出かける。実はこの番頭、律儀で堅物というのは仮の姿で、かなりの遊び人なんです。この日も、お得意さんのご接待のために、芸者衆をあげてどんちゃん騒ぎをするのです。

      ところが、そこにたまたま通りかかったのが、医者と一緒に花見をしていた旦那。目隠しをして鬼ごっこをしていた番頭は、よりによって旦那をつかまえてしまう。目隠しをとって呆然とする番頭。それに対して旦那は叱ることもなく、「この人は大事な人だから、怪我をしないように遊ばせてくださいね」と芸者衆に言って、すっと帰っていくんです。

      もちろん、店の金を使ったわけではなく、いわば接待費で遊んでいたのだから問題はないんですが、普段とは正反対の姿を見られ、番頭はいっぺんに酔いがさめてしまいます。店に帰っても一睡もできず、夜逃げしようかと思っていたところに、ようやく旦那からお呼びがかかる。覚悟を決めた番頭の前で、旦那は穏やかに語り始めます。「お前、眠れなかったろう。私も眠れなかった。何をしていたかというと、今までの帳面をずっと見ていたんだが、見事に一文の穴も空いていない!」。つまり、お前が使い込みを一切していないことは分かったよと、まず旦那は伝えたわけです。そして、栴檀の木にまつわる話を聞かせます。「栴檀は双葉より芳(かんば)し」の栴檀ですね。

      「栴檀という素晴らしい香木の周りには、南縁草という粗末な雑草が生えている。昔ある人が、この雑草を刈ったら栴檀まで枯れてしまったんだそうだ。栴檀と南縁草は持ちつ持たれつの関係だったわけだ。栴檀というのは、この店ではお前のことだ。そして小僧たちは南縁草のようなもの。お前が露を降ろすことで南縁草が育ち、さらにそれが肥やしとなって栴檀が元気になる。ところが、最近はこの南縁草が枯れそうになっている。ひとつ、南縁草に露を降ろしてやってくださいな」

      旦那は、かんで含めるようにそう話すんです。実にいい噺じゃありませんか。下の者が元気でないと、組織は枯れてしまうというのは、会社だけでなく、どんな世界でもいえることです。往々にして、できる人ほどトップに立つとワンマンになって突っ走ってしまうもの。人の上に立つ人にとって、この噺はとってもいい教訓になるのではないかと思うのです。

       

      お金の使い方に正解はない

       

      こと、お金に関して言うと、落語の登場人物は全然ダメですね。ホント、もう笑っちゃうほどです。ケチ兵衛なんていう名前のひどいケチな人が出てくるかと思うと、湯水のごとく金を使って勘当されちゃう若旦那も出てくる。まあ、お金の使い方で手本になるような人は出てきません。

      ただ、聞く人にお金の使い方を考えさせるような噺は、いくつもあります。その一つが、人情噺の『文七元結(ぶんしちもっとい)』。細かい点は演者によって少しずつ違うんですが、大体こんなストーリーです。

      左官の長兵衛は、仕事の腕はいいけれど博打ばかりするもんだから、借金で首が回らない。とうとう、一人娘を売ることになってしまう。そこで、女将が諭すんです。「いいかい、あんたに50両貸してあげる。あんたはもともと腕がいいんだから、これを元手に稼いで、再来年の大晦日までに返しておくれ。いや、いっぺんには無理だろうから、ちょっとずつ返すんだよ。分かったね。博打なんかやっちゃだめだよ」。と真面目に働いてお金を稼げと叱咤したわけです。分割払いならば返しやすいですしね。

      長兵衛はすっかり改心して、帰り道に吾妻橋を渡ったところで隅田川に身投げをしようとする若い男が目に入った。名前は文七。訳を聞くと、お得意さんのところに集金に行ったはいいけれど、そこでついつい好きな碁に夢中になって帰りが遅くなってしまった。あわてて帰ってきたのだが、途中で懐を確かめてみると金がない。そういえば、さっき道でドンとぶつかってきたやつがいる。そいつにすられたかもしれないと言う。

      「いくらだ?」

      「50両」

      さ、そこでなんです。娘を売って借りた50両をどうしようか……。この男、結局はあげちゃうんです。「うちの娘は生きてはいける。でも、おまえは死ぬというんだろう。じゃあ、やる。いいか、これは娘を売って手に入れた金だ。別に惜しくて言っているんじゃねえ。おまえに少しでも良心があれば、うちの一人娘の幸せを、おまえが信心しているお稲荷さんでもなんでもいいから、手を合わせるんだ」。そう言って、名前も言わずに去ってしまう。

      50両というと、今のお金で500万円くらいでしょうかね。そんな大金を他人にやってしまうんですから家に帰ったらもう大変。女房が信じてくれる訳ないですよね。

       

      落語家 林家正蔵氏

       

      結局、文七がなくしたと思ったお金は、集金先に置き忘れたままでした。文七の店の旦那は、店の名前を頼りにして娘を突き止めて身請けをする。そして最後は娘と文七が結婚し、ハッピーエンドとなるわけです。

      この噺の一番の聞きどころは、50両をやれるかやれないか、聞き手が自分に置き換えて考えることでしょう。常識ではやりませんよね。でも、やっちゃうのが気持ちいいというのが江戸っ子。もちろん、どちらの言い分ももっともです。お金の使い方に正解なんかないと思います。この噺も、結論を噺家が示すのではなく、「あなただったらどう思う?」とお客様に問題提起をして判断してもらう訳ですね。価値観や美学を押しつけないのが落語のいいところだと思います。

       

      お金の使い方はポリシーが大切

       

      人情噺としてよく知られた『芝浜(しばはま)』もまた、お金がかかわってくる噺です。主人公の魚屋は、腕はいいけれど酒好きで貧乏暮らしをしている。女房に起こされてしぶしぶ仕入れに出ると、大金が入った財布を拾う。

      しめしめ、これだけあれば商いをせずに食っていけると、男は家に帰って大酒くらってどんちゃん騒ぎをして、酔っぱらって寝てしまう。

      女房は、亭主にまっとうに働いてもらいたい。なので翌朝、「財布を拾ったのは夢だよ」と嘘で言いくるめる。で、このときの女房のくどき文句がいいんだな。「どうせ見るんだったら、拾う夢じゃなくて稼ぐ夢を見なよ」。

       改心した男は酒を断って必死に働き始める。そして、3年後に表通りに店を構えるまでになったところで、その年の大晦日に女房が本当のことを告げるというストーリーです。

      『文七元結』も『芝浜』も、本当の主人公はお金なんじゃないかと思うほど、噺の中でお金が重要な役割を果たしています。ここが大切なことだと思うんですよ。お金って、無機質で無味乾燥なものだと考えている人が多いでしょう。でも、落語の中のお金には体温があるんだなあ。50両というのがただの数字ではなくて、そこに気持ちが乗っかって人間くさくなる。あげるにしても、拾うにしても、そこに気持ちが乗っかって、人生を動かしていくわけです。

      落語の登場人物は、良くも悪くも、お金に対してポリシーを持っています。遊ぶことに使っても堂々としているし、他人にあげても後悔しない。落語では極端な話になるけれど、実生活でもお金の使い方にポリシーがあれば、自分の使い方に後悔しないんじゃないでしょうかね。

      もう一つ、私たちの普段の生活では、給料がいくらだとか資金繰りがどうだとか、身内でも友人でもお金の話を避けがちですよね。でも、お金には体温があって、そこに気持ちが乗っかる存在だと思えば、落語の中のように、お金についてもっとフランクに話せるようになるんじゃないのかな。そうなるといいなと思うんです。

       

       

      ■ プロフィール

      林家正蔵

      落語家

      1962年生まれ。1978年、父、林家三平に入門。前座名「こぶ平」。1981年、二ツ目昇進。1987年、真打昇進。2005年、九代林家正蔵を襲名。2014年、落語協会副会長就任。

       

      ■ スタッフクレジット

      記事:二村高史 撮影:川田雅宏 編集:日経BPコンサルティング

       

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      Published: 2023年7月31日

      Updated: 2023年10月17日

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